吃音体験記①に続き、吃音に関して印象的なエピソードを書いてみようと思う。
これもまた同じく、学生時代の話なのだが、小学校・中学校・高校と、すべての学校で吃音の友達がいた。
皆決まって嫌がるのは、やはり国語の音読の時間である。普段生活をしていて、何か質問をされたり、発言を余儀なくされることはあっても、自分が発音しにくい単語は違う単語に置き換えることで切り抜けることができるし、話し言葉であれば、「あー」とか「うーんと」など適当な言葉を挟むことで、どもりを回避することもできる。しかし、国語の音読の時間ばっかりはこれらは一切通用しないのである。
吃音を持っている人間は、文の途中でつっかえて話せなくなるということは少ない。一番深刻なのは、しゃべりだしなのである。教科書の話出しの単語を変えるわけにはいかないので、頑張って発音するしかないのだが、これがどうにも拷問級に苦痛である。私の場合は、「あ、あ、ありがとう」というように、無駄に重なって発音してしまうという症状のため、それがシーンとした教室に響き渡るのは非常に恥ずかしい。しかし、そこで落ち込んでいては情けないと思い、どもって笑われても、それと同じくらいに自分も笑っておどけて、噛んじゃったーなどとごまかして来たのだが、この精神的疲労は普通の人間にはなかなか計り知れないものがあると思う。私の友達は、なかなか最初の言葉が発音できず、無音の時間が長く続いてしまうという症状だったが、それもうまくごまかしながらやっていたように見えるが、大変に精神的に苦労していたと思う。
こういった苦痛の時間は、もう少し大人が配慮するべきなのではないか、と大人になった今思う。国語の音読が不必要だとは思わないが、からかいの標的にされた生徒の気持ちを、教師は把握しようと努力すべきだと思う。