もし吃音者でなかったら

自分が吃音者でなかったら、どういう人生だったのだろうと思うことがあります。

具体的に想像もできませんが、今よりのびのびとしていたことは、間違いないと思います。
健康な人には、病人の気持ちが分からないように、普通に話せる人には、吃音者の気持ちは分からないし、分からなくて当たり前だと思います。

自分の言いたいことが、頭では浮かんでいるのに、言葉として出せない。苦し紛れに、他の言葉で言い換えなければならない時の、屈辱感。
自分は、いったい誰と闘っているのでしょう。誰に対しての、屈辱感なのでしょう。

やる気になれば、何でもできるといいますが、やる気になっても、言葉が出てこない。
普通に話すことができる人からしたら(殆どは、そういう人ですが)吃音者の存在は不思議な存在と言えるかもしれません。

身体は健康なのに、普通にスラスラ話せない。その話し方を馬鹿にされることもある。笑われる。優しい人からは、気を使われる。
気が小さいように見えることもあるでしょう。おどおどしているように見えるかもしれません。
実際言おうとしていた言葉が、直前で出ない時にはどうしていいか分からなくなります。

こういう経験はなかなかできませんが、こういうことに何か意味があるとも思えません。
ただ、こうやって生きていくしかないという、悔しいという気持ちが生まれてくるのです。